読んだ本

死者に鞭打つ

『円谷幸吉 命の手紙』(松下茂典著 文藝春秋)を読んだ。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。」
遺書の冒頭部分だ。円谷の遺書は、川端康成や三島由紀夫など、作家にも表現力を評価された。

円谷幸吉は東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得したことで一躍注目を浴び、次回のメキシコ五輪では金メダルを期待される期待を一身に浴びた。
しかし、その後、腰痛や足の怪我、結婚の破談などによって心身ともに追い詰められ、自殺した。

円谷幸吉は筆まめであり、送った手紙があちこちに残されている。
『円谷幸吉 命の手紙』は彼が残した膨大な手紙を手掛かりに、その人生をたどる。

円谷幸吉については何冊もの本がある。
沢木耕太郎の『敗れざる者たち』にも、「長距離ランナーの遺書」として扱われている。
しかし、その扱い方は松下茂典と沢木耕太郎では当然違っている。

「なぜ死んだのか、なぜ生きつづけられなかったのか。しかし、そう問うことは、逆になぜあなたたちは生きつづけられるのか、と死者から問い返されることである。」( 『敗れざる者たち』 )
沢木の興味は、円谷の自殺の真相そのものにあるのではないことは明らかだ。

しかし、松下は、事実そのものを、寸分たがわず詳らかにすることに容赦がない。破談となった相手方の女性は、別の家庭を築いて50年にもなり、すでに80歳を過ぎている。それでも、松下は破談のいきさつを確認するべく、彼女との面会を求めて、執拗に訪問を繰り返す。

本書を読んだ者には、円谷のコーチを地方に飛ばし、結婚にも待ったをかけた自衛隊体育学校の校長こそが、円谷自殺の要因を作った張本人であると読み取れるようになっている。件の校長は、おそらく故人であり、ご家族もおありだと思う。しかし奇妙なことに、彼の消息は、公的な記録以外、全く見つからない。 自衛隊体育学校の校長という要職を経験した人に関する情報、すなわち、彼の生涯や家族など、痕跡すら見つからないのである。

『円谷幸吉 命の手紙』 によれば、円谷の自衛隊葬当日、校長には
「人殺し!お前が円谷幸吉を殺したんだ!」
と、罵声が浴びせられた。(誰が発言したかは不明)

校長のご家族のことが気にかかる。国民的英雄を死に追いやった張本人として、あちこちから糾弾され、お子さんでもいれば、強烈ないじめにもあったに違いない。校長との関係を悟られぬように、気を使いながら、いまだにひっそりと生きていらっしゃることを想像すると、胸が詰まる思いがする。
名字由来NETで調べてみると、校長と同じ名字の人は、全国に4,300人いるらしい。

本書の白眉は第6章「謎の女」。円谷が最後の数日を共に過ごした女性についても詳しく言及してあるところだ。こうした女性の存在は過去にも多少触れられたことはあったが、ほとんど表に出されることはなかった。
彼女の現在の消息も不明である。しかし、本書に記載された身体的特徴やら地名を手掛かりに、探し出そうというものが出てくるかもしれない。ひっそりと余生を過ごしていらっしゃるかもしれないご本人に、急にスポットライトが浴びせられる日が来ないとも限らない。特定されてしまうかもしれない。

過去をほじくり、死者に鞭打つ行為の是非はともかく、ほじくり返された死者の、家族や縁者までが鞭で打たれることのないよう、願うばかりだ。