老い

スローモーション

体調がようやく戻った。
たいした酒量を飲んだわけでもなく、帰宅するまで、足取りがおぼつかなかったわけでもない。ただ、気が付いたのは明け方で、布団ではなくソファに突っ伏して寝ていた。

布団まで移動するのがかったるく、そのまま2,3時間、ぼーっとしていた。
朝食はもちろん、パス。午前中の面談を1件、巣鴨で済まして、帰宅後にそばをすする。
夕食時になっても食用はあまりなく、西友で買ってきた塩鮭で簡単にすました。

電話がかかってくれば対応はしたし、メール返信も何とかこなした。
でも、予定していた論文は手付かずだし、このブログも休止してしまった。

若いときに比べて、何もかもがスローで緩慢になった。ちょっとつまずいてただけでも、体勢を立て直すのに時間がかかり、そのままバランスを崩して転んでしまうこともある。転ぶまでの時間が長く感じられる。まるでスローモーション画面を見ているよう。
だからと言って体が反応できるわけではない。なすすべもなく迫りくる地面を眺めているだけだ。

歩くスピードが急に遅くなるのは、死期が近づいたサインの一つだそうだ。そういえば確かにゆっくり歩くようになった。電車を降りてからエスカレーターまで、誰よりも早くたどり着くことをいつも狙っていたけれど、急いでいる人にぶつかられないように最後尾を歩くことが多くなった。

5歳の子供にとっての1秒は、5年分の1であり。60歳のおいぼれにとっての1秒は60年分の1である。年々、相対的に時間は短く感じるようになるというわけだ。

普段は早く感じられる時間が、転ぶときに限って長く感じられるのはいかなる理由によるものなのか、よくはわからない。
死を直前にした瞬間、自分の一生が走馬灯のように流れて見えるという。転ぶときに見えるスローモーション映像は、その予行演習なのかもしれない。

老人は、転んだだけで死んでしまうこともよくある。
転んだ刹那、スローモーション映像が迫りくる地面ではなく、自分の一生を振り返る映像になったとき、自分は死を迎えることになるのだ。